個人的な日記

個人的な日記です。

Only lovers left arrive

多分考え方がすごく似ている。言葉端に気を遣うひとだ。
自分は良い人ではない、女の人に選ばれたことが無いという、控えめで、そんな所も多分似ている。
ボキャブラリーに捻りを加えるきらいがある。
目がコンプレックスでいつも隠している。私はその奥が見たい。君のフィルターで世界がどう見えているのかが知りたい。

他人の纏う色を視て、感情を音楽で出力できるひとだ。
それを普通だという。わたしにはどちらも出来ないので才能だとおもう。

多分持っている才に対して自己評価が低い。友達のことをすごいすごいと自慢する。君もすごいのにな。
そして多分常に面白い返しをしないといけないと気を張っている。努力をしてコミニュケーションをとるひとだ。
つまんなくたって君はすごいのにな。

私は2週間後この地を去るけれど、もっと君と会って話がしたかった。優しくてホロホロの漆喰みたいな身体を外側から抱きしめて見たかった。積み木を崩したくなくて次の一手が分からないでいる。

センチメンタル・バス

f:id:toumeyningen:20210604160556j:plain
お元気ですか、こちらは元気です。

自分が元気な時にそう口火を切るのは容易いが、自分が元気ではない時に「わたしはこの頃元気ではない、あなたと話したいが数分でいいので話し相手になってくれないか」と言うのは中々容易ではない。しかし元気ではない時の方が他の力が必要だ。げに人生とは儘ならぬものか。

浴室に干された6日分の洗濯物は行ったこともないインドの超満員のバスを彷彿とさせる。3回浴室乾燥をかけてもしっかりとは乾かないだろう。

1週間とか、ここ数ヶ月とかではなくて6年分くらいの疲れがどっと押し寄せている気がする。実労でいうとコロナもあり数年前よりずっと減っているからだ。これはもう養命酒の手に負えない。休日の2度寝で見た夢でも10人のスタッフの休憩回しに勤しんでいたので更に疲れてしまった。

それでも気にかけてくれる友人が要るのはきっと幸福なことで、LINEのギフトでカフェラテを貰うだけで涙が出てくるのであった。

ああ、誰かと話したい。でも1人で暮らしたい。
なんと儘ならんこの心。

優しい皆は伴侶を得ていて、もしもし、今なにしてる、なんて深夜に電話することはもうできない。この状況がこの先深まっていくのは容易にわかる。
そもそもわたしは電話が得意ではない。
更新されない深夜のSNSをスクロールし続ける日々。

なんか男の子と話したいなあ。でも男の子って嫌い、すぐウンコとかいうし。

幼児の頃から更新されない自意識と、更新されない思い出で気が滅入ってしまった。


サブスクリプションで知った気になっている洋楽も、煙草の煙も体内を通り抜けてゆき留まって私を癒すことは無い。キャッシュだけが溜まった自分という端末の電源を1回落として、植物や雀かなんかにハードを変えられたらなあ。なんつって。

個人的な日記

春になると1年間日々微量に見て見ぬふりをしてやり過ごしてきたおいてけぼりの感情が一気に洪水となって溢れてきて情緒が映画『パプリカ』のパレード状態になってしまう。
句読点は押し流されて消えました。

毎年春が嫌いだと思うのをわかりやすく言語化しようと試みた結果2021年はこうなりました。来年はきっとまた違う形で春なんて嫌いだと言っていることでしょう。拝啓2022年の私へ。

唯一春の良いところは考え事しながら仕事中にぶわっと涙が出てきても花粉のせいに出来ることだ。
もはやコレも含めて私の花粉症症状ということにしてしまおうか。ですます調に揃えることもできません春なので。


4月になったら学年があがり先輩たちは居なくなる。
私という人間はとっくに義務教育を終え何年も経っているというのに「学校」というコミュニティを軸に形成されている。
5月になり木々が青く生い茂ると皆廊下でダンスを練習し始める。私の通っていた高校ではそうだった。私は参加していなかったけれど。

つい数日前まではそこに居た人達がごっそり違う環境に押し出され、繰り上がり同じ環境にありながら代謝が行われる。暖かい、優しそうな顔をして春は暴力的だ。
黄色い花粉を撒き散らしながら鞭を降るって世界を押し出してゆく。


NHKのドキュメンタリーで画家の五味太郎が日本の教育制度は自ら考える人間を育てようとはしていない。全く考える事ができない人間が形成されるようカリキュラムされている、というようなことを言っていた。濁してはいたが、考えずにすぐ戦争にいけるように、それは戦前から現在までずっと変わっていない、全く良いと思わない、そんな内容だった。

極論ではあるが確かにと思う面もある。
これもまた聞きかじった意見でしかないが、日本の倫理観は「他人と比べて恥ずかしくないか」という所に存在し、キリスト教圏では「神様はいつも見ていらっしゃる、故に恥じないように行動せねばならない」という所に在る。ということを聞いた。

起立、礼、着席。おはようございます。お国の為に、良い大学に行くために、あなた自身のより良い人生の為に。

みんな本当は考えたくなんかない。何も考えずに楽な方に行きたい。そうしてどんどん楽じゃないほうの地獄へ進んでゆくんだな。
1万年とか経ったら、もしかしたら人間の頭部は無くなっているかもしれない。顔が無ければ、偏見や差別も交尾の際に相手を選り好みすることもないから効率的かもしれない。二本足も効率が悪いのでドローンみたいに4本足で、地を這う生き物になるかもしれない。

人間は嫌いだ。でも、懲りずに人間を相手にした商売をしようとしている。愚かで汚くて、それでも人間が創り出したものを美しいとも思う。どう足掻いても逃れられないならせめて、傭兵ではなくプライベートアーミーになりたい。

塔の上で冷凍パスタ

お風呂上がりに化粧水をつけて、乳液を擦り込んで、美容液つけて、クリームパックして、そんな工程をしていると面倒臭いのと同時に「注文の多い料理店みたいだな」と思ってしまうのでピュッピュと化粧水をつけておわり、みたいなずさんなことをずっとしていたら30代目前の私は肌も身体もカサカサになってしまった。

前述したように性欲は無くなったのに誰かに触れられるときの私はすべすべでありたいなどと思い改め最近は注文の多い料理店よろしく色々塗りたくるようになった。愚かだ。きっとこれもすぐ飽きてしまうだろう。

圧倒的に1人で居たいと自分が思っていることに一人暮らしをはじめてから気が付いた。でも場当たり的な寂しさはある。
好きだった人のことを、振られてから三年経っても毎日思い出す。

正確には「好きだった人だった人」だ。
半年だけ一緒に仕事をしただけなので悪いところを1つも知らず、「また一緒に仕事をするかもしれないから」と優しく断られたので私の脳は都合よく理想の存在を造り出し何度も何度も素敵だった瞬間だけを思い出し錬成されたそれはもうその人では無い。
異性との汚い部分の無い綺麗な思い出は希少だ。

痛々しいそんな尿結石の蜃気楼みたいなものを大事にしているだけ。

最近はぬるい仕事をして生きている。
注意されることより注意することの方が多くなった。
朝9時に起きて夜9時に帰って冷凍のパスタ食べて夜更かしして寝て起きての繰り返し。冷凍のパスタと野菜ジュースが1番コスパ良くて健康的な罪悪感が少ないと気付いたが正しいのかどうかはわからない。

毎日23時40分の終電まで仕事して24時までのまいばすけっとに間に合えば自炊して朝7時に起きて走って2駅乗り換えて出勤していたわたしに頬を引っぱたかれそうだ。
引っぱたかれたらやさしく抱きしめてあげたい。

心穏やかに暮らしたい。

今年のおひつじ座はとにかく出会い、出会いがあるぞみたいなことを各種占いが言っていた。
持ち物を断捨離して空きスペースを作ると新たな出会いに恵まれるなどともよく言うが物に溢れた私の部屋は1つも要らないものなど無いように思え、それは現状に満足しているから膠着しているようにも思える。

変わり映えのない日々にはもう飽きたし、物も会社も断捨離して、新しい生活を思い描いてはいるのだが、固定給と陽当たりの良い社宅で好きだった人だった人への自分の凝り固まった幻想尿結石の蜃気楼を眺めながら日々過ごすことに何の不自由もないから。

「出たいと思えば牢になり、出たくないと思えば城になる」
モノノ怪』のっぺらぼう の薬売りの台詞だ。

出たいと思いながら城の中で妄想を続けている。

そこに居たもの

確かにそこに居た。
27歳までは確かに居たのだ。10代の頃その存在は忌まわしく、しかしどうにも抑えられないものでもあった。

近頃性欲が無くなった。
かつては大好きな人もおり、その人とセックスしたいと切に願ったり、それは叶わなかったり、1度してしまったことが誤りだと気づいたり、よく分からない人としたり、自分が好きではない人とした事が結果的に相手をめちゃくちゃに傷付けたりもした。

他人とセックスをしている時に私の中の「孤独君」というイマジナリーフレンドが壁の中から現れる。
狭いベッドで窮屈に寝ていると孤独君がやぁ、と声をかけるでもなくただそこにあらわれる。壁の向こうから愚かな私をじっと見つめる。

他人といる時の方が孤独を感じることはままあることだ。
そしてセックスは漫画のようには上手くいかない。
痛いとか、しつこいとか、気持ち悪いとか、もうやめたいとか、そんなことを思うこともある。
セックスなんかよりオナニーの方が気持ちいい。そう思うことすらある。というか、よくあった。

その全ての根源であった性欲がどこかに行った。
確かにそこに居たような気がするのに、気紛れにやってみるオナニーでさえも気持ちよく無くなった。

女性は満足のいく性行為やなんかすることでエストロゲンが出て綺麗になったりするとかいうのでちょっと困るなと思う。
性欲が無くなったこと自体は結構どうでもいい。

「会社内で昇進する人は性欲が強く持て余しているが発散出来てない人」という噂があった。それは科学的にもまあまあ合っているらしい。

内側から燃え上がる衝動を仕事に昇華できるかどうかなのであろう。そんな話をしたかつて友達でありライバルであり何年も拗らせて好きだった同期は3人で仲良かったうちのもう1人の後輩と北海道で同棲している。私もその後輩女子も彼の役職を抜いたが、「ああ、性欲を消化できてるから昇進してないのか」と思うとバカバカしくも嘔吐しそうな感情だった。
そんな時代もあったねといつか話せる日が来た。友達が1人減って、他人が1人増えただけだ。

仕事は普通になった。
入社してからずっと苦しく、苦しみこそが人生と思いながら、でも何人かの尊敬できる先輩や後輩に支えられながら、意地と根性と実家に戻りたくないという三点倒立で歩いてきた。
嫌いだった人は大方辞めて、お世話になった人も大方辞めてしまった。

幾つか耐えられないと思うような出来事はあったが努力や歳月が背中を押したりしてなんとかやり過ごした。
今は穏やかで、穏やかな人達に囲まれてあぁ、普通だな、と思えるくらいになった。

そんなタイミングで、性欲が無くなった。

「人生は楽しい地獄」とはよく言ったものだな。
言ったのは星野源だが先程星野源のよみがえる変態を書店で手に取って、冒頭から性欲の話だったのでオエってなって戻してしまった。星野源は何も悪くない。

・・・

あっラーメン食べたいとか、コンビニのあったかい肉まんをお昼にしちゃおうとか、甘いもの食べたいとか、浴びるほどぐうたらしたいとか、そんな欲はまだ健在だ。
でもそのうち無くなっちゃうのかもしれない。

困ってないし、別にいいやと思っている。
ここはそんなことを書く場所になっている。

妄想

近代以前の人間はもっと日々妄想に溢れていたのではないか、とふと冷蔵庫のありあわせごった煮ラーメンを啜りながら思う。どんぶりに描かれた中国の子供たちが何か言っている。


各方面からバッシングを受けそうだがあらゆる宗教そのものが集団の共通妄想のようなものでできていると思う。一見共通しているようであるけれども、個々に思い描く神や救いのかたちはそれぞれ違っている。


古代エジプトでは魂は心臓に宿り、バーという鳥のような物が死後の太陽の国と実際の肉体(ミイラ)を行き来するという。
魂は心臓に還ると考えられていた。


一方現在の化学では人は脳によって考え、(「魂」を意識することはアニメや漫画以外ではあまりないが)パーソナルな思考、個人が個人たる1番の臓器=脳 というのが一般的。


古代エジプトのミイラ作成のプロセスでは脳は鼻から出して棄てる。察するに1番要らない臓器だったんじゃないかと思う。
ちなみに他の臓器はカノポス壺という別の器に保存していたそう。


当たり前だが時代や地域によって常識や定義は大きく変わる。
科学が発展して全世界の共通認識が増えれば増える程、土着の「妄想」は薄れ、衰退していったのが今現在なんじゃないかと思う。今後ますますそれは加速し、浸透していき、土着のものの淘汰は進んで行くはずだ。


しかしだ、最終的に考え想像するのは1個体の人間なのだから、変わっていないといえば変わっていないのかもしれない。
キリストが磔刑にされて生き返った、復活を祝おうと社会全体が思えば宗教。個人1人で思えば妄想。

ちなみにそれが事実であったかもう確認することはできないので、私は決してキリストの復活が嘘だと思っているわけではない。


何が言いたかったかというと
私が部屋で1人でぬいぐるみや人形の声をきいたり心情を理解していると思うことは別に普通だよな、と思って数学の証明よろしく論理を組み立てごっこしてみただけなんだ。
Q.E.D.

らららクラシック

天高く馬肥ゆる秋。
空は晴れて気持ちは緩やかに病んでいる。

初めて入る微妙な喫茶店ではクラシックが流れていて、当てどなくフラフラしている私はエヴァンゲリオン碇シンジ君になったようだった。

なんとなく向こう一年以内に会社を辞める予感がして普段あまり話さない遠方の社員と電話するとああこれが最後かもな、と思ったりする。
その前に世界がぶっ壊れるかもしれない。
「予感というものはここぞという時に当たらないもんやで」と前職の先輩が言っていた。

なんだか毎日最終回みたいな気持ちで、穏やかに「ありがとう、さようなら」と頭の中で繰り返す。
どうやら私は同じ土地に2年以上いると落ち着かなくなってしまうらしい。実家にいる時はいつもこんな気持ちだった気がする。

11月が近づくと従兄弟の命日だからかもしれない。
徐々に近づく冬は人の心も呑み込んでしまう一瞬があるのだと、私は思っている。

曇りなき冬晴れは遠い。