個人的な日記

個人的な日記です。

ミッドサマーと世界の矯正

話題沸騰の映画『MID SOMMER』。
主人公が訪れるスウェーデンの小さなコミューン、
ホルガ村では村の掟に従い様々な宗教行事が行われる。

冒頭で視聴者に強烈な印象を刻みつける「アッテストゥパン」は日本で言う「姥捨て山」。
ホルガ村では人生を季節に例え、0~17歳までが春、18~36歳までが夏、37~54歳までが秋(ちなみにこの秋が労働の季節らしい。私はまだ労働しなくて良いのだ)56~72歳までが冬。それ以降は死に、また新しい命に生まれ変わる。72歳を迎えた老人はアッテストゥパン=すなわち崖から飛び降り、強制的に死を迎える。

村を訪れたアメリカ人達はショックを受け、やめさせるように叫ぶ。
最初に飛んだ女性は見事な降下で顔面から衝撃を受け崩御した。
次に飛んだヴェニスに死すで有名なビョルン・アンドレセン扮する男性の老人は足から落下し、失敗してしまう。

私はこの時のビョルンおじいさん(私の脳内でこう呼んでいるのでこう記載する)の心情を想像することを禁じ得なかった。
まずこのシーンを見た時、「オイ、足からいったぞ!?」と思ったのだが、気持ちも分かるのである。

私はよみうりランドバンジージャンプをした事があるのだが、順番の最後というのはかなりのプレッシャーがある。職場の人と4人で飛んだのだが、私はじゃんけんで負けて最後になってしまった。

上まで登るのはそれなりに喋ったりすることができる為高揚感がある。前から順番に飛んでいき、残された自分。静かで、尋常ではないプレッシャーがある。なぜなら全員成功しているのだから。

これが紐なしで死=成功とされている場では尚更だろう。後には引けないのだ。

何より、かなり怖い。
よみうりランドバンジージャンプは22mだが、正直ナメていた。高所恐怖症という訳ではないし、安全紐も付いている訳だからピョーンと飛べるだろうと。

ジェットコースターなどとは違い、ハーネスと紐以外支えるものは何もない。自分の意思で飛ばなければならない。
そして事前の説明でなるべく膝を曲げずに前傾で顔から倒れるように飛ぶ事を推奨される。
これが、めちゃくちゃ怖いのだ。

なので先に飛んだ女性は相当肝が据わっていると思われる。ホルガ村に生まれ、その人生の始まりと終わりを受け入れ、見守る村人の長兄として失敗は許されない。女性はやはり強い。

かくいう私は怖すぎてビョルン飛びだ。
顔から落ちるとか無理だった。
係員に押され膝ぴょってやって垂直落ち。
でもアッテストゥパンに置いては覚悟が弱い方が痛い思いをするんですね。

私はビョルンおじいさんが根性なしと言っているわけではない。
なぜなら、女性が飛んだあと下でアメリカ人がギャーギャー言い始めるのだ。
「こんな事はやめさせろ!!同じ事をする気だぞ?!?!」

ビョルンおじいさんは今までの人生を振り返ったりしただろうが、きっと下での騒ぎも耳に入ったはずである。

ーもしかしたら、自分は死ぬ必要無いのではないか?ー
―助かる道もあるのでは無いか?―

そんなことを思ったかも知れない。
そして崖の恐怖もあるであろう。

結局足だけを負傷して(めっちゃ痛そう)嘆き悲しむ村民によりハンマーで頭を砕かれてビョルンおじいさんは死を迎える。
わかっちゃいたが救済の余地なんか一ミリも無かったのである。

ただこの一連の流れに私は人間の機微を見た気がした。


以上は主観的に見たアッテストゥパンの感想だが、
視点を変えてアッテストゥパンという行為そのものについて言及しようと思う。


先日、愛知県で新型コロナウイルスに罹患し「ウイルスをバラまいてやる」と発言し感染を拡大させる行為に及んだ男性が死んだ。

昨今の世の中では新型コロナウイルスとかいう疫病が蔓延し社会問題になっている。

私は基本的に無宗教寄りの人間だがこれは世界を統べる大きな力(神と呼ぶのが正しいかはわからないが簡単にいうとそうである)が世界を是正するための処置ではないかと思う節がある。

先述の男性が死んだこと、自らの行いに対する制裁にしか思えないからだ。
(勿論それだけではなく、急激に労働環境が良くなったりだとかそういうことを加味してである)
持病があって助かる見込みがなくそういう行為に及んだのかも知れないが、超高齢者というわけでも無かったし大人しく治療に専念していれば生き延びられたのではないかと思う。勿論そんな奴に生き延びて欲しいなどとは思わないが、この正しい・正しくないの行い、それに伴う制裁。これに既視感がある。そう、ホルガ村だ。

私のこの考えがかなり危険思想なのは自覚している。
だがホルガ村が非常に分かりやすく簡潔にルールを設定したこの世界の縮図に思えて仕方ない。

大多数の人間にとっての「正義」
争いのない世界。
崖から飛ぶのは怖い。